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チャングムを楽しむための朝鮮の歴史 [Movie・TV]

チャングムの誓いを見ていたら、その時代背景が知りたくなって、

色々と調べてもらいました。せっかくなので、乗せますが、かなり長いので、

覚悟。。。

■高麗
  
  朝鮮の王朝(918~1392)。9世紀末以後、朝鮮半島は各地に地方豪族が台頭し、対立、抗争する動乱状態に陥った。そのなかで、開城の豪族王建は、初め有力豪族弓裔(きゅうえい)に臣事したが、やがて弓裔を倒して、自ら王位につき、開城を都として高麗王朝を建てた。当時、朝鮮半島内は依然として、南東部の新羅(しんら)、南西部の有力豪族甄萱(しんけん)の後百済(ごひゃくさい)の二大勢力をはじめとして、大小の豪族が各地に割拠する状勢が続いていた。王建は種々の手段で彼らに対する征服、統制を推進し、935年新羅、936年後百済をそれぞれ滅ぼして、半島の統一を達成した。高麗の統一は、単なる新羅の旧領域の復旧にとどまらず、当時の東アジアの国際情勢にも助けられた、北方への積極的領域拡張をも伴っていた。
   王朝成立の初期には、まだ地方豪族に対する統制も十分ではなく、王権も確立されるに至らなかったので、政治情勢は不安定であった。しかし、やがて第6代成宗の即位(981)とともに、王権の強化と支配体制の整備が本格的に開始された。おりから東アジアの国際情勢の変化により、11世紀初めにかけて三度契丹(きったん)の侵略を被ったが、それをも政治的、文化的発展、強化の機会や契機として積極的に取り込みつつ、その努力は続けられた。その過程で地方豪族の勢力は、一方では中央の官僚として、また一方では在地の地方行政実務担当者の郷吏として、高麗の支配体制内に吸収されていった。
  こうして、第11代文宗のとき(11世紀末)までの約1世紀間に、中国(おもに宋(そう)および宋を介しての唐)の制度に倣いながら、各種の制度が整備され、国王を頂点とする中央集権的官僚制国家として確立された。
   高麗の支配体制の中枢を占めたのは文武の官僚で、両班(ヤンバン)と総称されたが、国家の発展、安定とともに、文臣が重んじられるようになり、また門閥の形成とともに、高位高官を占める家柄がしだいに固定化していった。彼らは有力門閥との通婚、とくに王室の外戚(がいせき)となることを推進して、勢力の増大を図った。


  ■武臣政権とモンゴルの支配■


  12世紀に入ると、門閥文臣官僚による政治にもようやく陰りがみられるようになり、文臣の隷属下に置かれた武臣や、増大する国家の収奪に苦しむ農民などの不満が高まった。
  1170年武臣はクーデターで一挙に文臣勢力を倒して政権を握り、それとともに74年から全国で農民の一揆(いっき)、反乱が爆発的に起こった。96年以後は武臣崔(さい)氏が、高揚した農民の動きも抑えて、4代60年間政権を維持したが、おりから北方でモンゴルが勃興(ぼっこう)した。そして、1231年以後約30年間、高麗はモンゴルの執拗(しつよう)な侵略を受け、多大の被害を受けた。崔氏政権は江華島に遷都して難を避けつつ、本土での対モンゴル抗戦を指揮した。実際各地で挙族的な激しい抗戦が展開されたが、1258年の崔氏政権の滅亡を機に、ふたたび政治の中心に復帰した高麗王室はモンゴル(のち元)に服属し、やがて開城に都を復した。これ以後約1世紀間、元の2回の日本遠征(元寇(げんこう))の主要基地とされて多大の負担を課せられたのをはじめとして、政治的、経済的な重圧を受けた。しかもこの時期には、親元的権勢家や仏教寺院などによる大土地私有が進展し、また14世紀中ごろからは南の海上からくる倭寇(わこう)
の侵入が始まって、しだいに激しさを増すなどの動きもみられ、国勢はいっそう衰えた。1368年中国で明(みん)が元を北方に追って支配者となると、高麗朝廷内部では、外交方針をめぐって、親元、親明両派の政治的対立が強まった。そのなかで、咸興(かんこう)の豪族出身の李成桂(りせいけい)が、倭寇の撃退、親明方針の主張、土地制度改革の実行などによって勢力を確立し、1392年高麗を滅ぼして自ら王位につき、李(り)氏朝鮮王朝を建てた。


  ■文化■


  高麗時代の文化面でまず注目されるのは仏教の盛行である。仏教は国家鎮護の法とされて、高麗一代を通じて国教の地位を占め、寺院の造営、大規模な法会、行事の挙行などが国家の主導下になされた。『大蔵経』の刊行も2回(11世紀、13世紀)行われ、8万余枚に及ぶ第二次大蔵経の版木は現在も慶尚南道海印寺に完全に保存されている。なお、第二次大蔵経とほぼ同時期に金属活字による活版印刷術も開発され、実用化されており、注目される。儒教も国家の政治、儀礼の原理として尊重され、それに対応して、中国式科挙制度の採用、中央、地方の学校制度の整備なども早くから行われた。末期には、元との関係を通して朱子学が伝えられ、新興官僚層の思想的よりどころとされるに至り、そのなかから仏教排撃論、田制改革論などが打ち出され、李朝初めにかけて政治、社会、思想の革新が図られた。
   次に工芸面では、陶磁器とくに青磁が有名である。宋の手法の模倣から始まったが、やがて翡翠(ひすい)色の釉薬(ゆうやく)、象眼(ぞうがん)などの独自の技法を生み出し、その優美さは宋人をも感嘆させている。この青磁は、当時の地方行政組織の一環をなす磁器所という特殊な行政区画の住民の、国家から課せられた身分的、世襲的負担として作製された。→朝鮮史 →日朝交渉史


■朝鮮史
  
  ■原始社会■
   旧石器時代の遺跡、遺物は朝鮮各地で発見されているが、そのおもなものは、平壌市郊外コムンモルの40万~50万年前といわれる洞窟(どうくつ)遺跡、咸鏡(かんきょう)北道雄基郡屈浦里(くっぽり)・鮒浦里(ふほり)の3万~10万年前にわたる遺跡、忠清南道公州市長岐面石壮里(せきそうり)の3万年前からそれより古い時代にわたる遺物包含層、京畿(けいき)道漣川(れんせん)郡全谷(ぜんこく)面全谷里から出土した東アジアでは類のないハンドアックス(握斧(あくふ))などである。
  当時の人々は打製石器や木、骨の道具を使い、動物をとり、木の実や球根を採取して生活した。

  ■新石器時代■ 

旧石器時代が長く続いたあとに、紀元前5000年ごろ、土器と磨製石器を使う新石器時代が始まった。その土器を代表するのは、櫛(くし)の歯で刻んだような文様をもつ半卵形の櫛目(くしめ)文土器(幾何文土器)である。道具には石鏃(せきぞく)、石刀、骨槍(こつそう)、骨銛(こつせん)などの狩猟、漁労の用具のほかに、石犂(いしすき)、石鋤(いしすき)、石鍬(いしぐわ)、石鎌(いしがま)などの農耕用具がある。遺跡は河川の下流域や海岸に多い。当時の人々は集落をつくって定住したが、彼らは氏族社会を形成していたと思われる。

  ■青銅器時代■ 

紀元前1000年代(前700~前600年ごろともいわれる)に、「満州」(中国東北部)から朝鮮北西部にかけて青銅器文化が現れる。土器は朝鮮の独楽(こま)のような形をした文様のない無文土器に変わる。青銅器には刀子(とうす)、のみ、斧(おの)、鏃(やじり)、槍(やり)先、ボタン、指輪などがある。農業はいっそう発達し、ブタ、ウシ、ウマの飼育も行われた。私有財産制度が芽生え、権力をもつ支配者層が現れた。多数の人間を動員してつくられた支石墓は、その象徴である。

  ■国家の形成と中国の郡県■
   青銅器文化は紀元前数世紀ごろになって飛躍的に発展し、武器、鏡、馬具、車具、工具、装身具など多様で精巧なものが現れる。
  また青銅器と並んで鉄製の武器や農具が現れる。それら青銅器文化、鉄器文化は、遼河(りょうが)流域から朝鮮北西部にわたる地域で開化し、しだいに南方に広まった。


  ■古朝鮮と辰国■ 

この高度の文化を基礎にして、前5~前3世紀ごろ朝鮮(いわゆる箕子(きし)朝鮮)という王国が成立し、前2世紀初めに衛氏(えいし)朝鮮が建国された。これらは後の李氏(りし)朝鮮と区別して古朝鮮という。古朝鮮の領域、首都の位置、社会の性格などについては種々の意見がある。一方、朝鮮の中部以南では、ほぼ同時期に辰(しん)国が成立した。辰国については古朝鮮以上に意見が分かれ、その存在を否定する者もいる。


  ■中国の郡県■ 

古朝鮮はかなり長く続いたが、漢の武帝の侵略を受けて滅亡した(前108)。漢は古朝鮮の故土に楽浪(らくろう)、真番(しんばん)、玄菟(げんと)、臨屯(りんとん)の四郡を置き、郡の中を県に分け、中国の領土に編入した。楽浪郡以外の三郡はまもなく廃止あるいは移転されたが、楽浪郡だけは後代の4世紀初期まで存続した。その間、3世紀初年には楽浪郡の南部に帯方(たいほう)郡が設けられた。楽浪、帯方二郡は中国歴代王朝の東方支配の拠点であった。四郡および帯方郡の位置については多様な意見がある。楽浪郡治は平壌付近にあったと考えられてきたが、そうではなくて遼東半島にあり、平壌付近にあったのは楽浪郡ではなく、朝鮮人がつくった楽浪国であった、という説も現れている。→朝鮮四郡 →楽浪郡


  ■高句麗、百済、新羅三国の発展■


   中国の支配に対して朝鮮の諸族は戦いを始めた。その先頭にたったのは高句麗(こうくり)である。高句麗は夫余(ふよ)族の一派で、鴨緑江(おうりょくこう)中流域を中心にして紀元前後に王国をつくった。以後、中国歴代の王朝と悪戦苦闘を重ね、また周辺諸種族を征服し、ついに4世紀初期に楽浪郡を攻め倒し、続いて帯方郡を滅ぼした。約400年続いた中国の朝鮮支配は終わった。こうして高句麗は「満州」から朝鮮北部にわたる古朝鮮の故土を取り返した。


  ■百済、新羅、加耶連合■ 

一方、朝鮮の中部以南では韓(かん)族が台頭した。かつての辰国のあとは馬韓、辰韓、弁韓の三部族に分かれ、それぞれ多くの小国で構成されていた。
  馬韓のなかの伯済(はくさい)(百済(ひゃくさい))の指導層は夫余族出身者であったが、慰礼(いれい)城(ソウル)、続いて漢山城(京畿道広州)を拠点にして馬韓諸国を統合し、3世紀末あるいは4世紀初期に百済王国を建てた。ほぼ同じころ辰韓のなかの斯盧(しろ)が辰韓諸国を統合し、慶州を都にして新羅(しんら)王国を建てた。
   三韓のうち弁韓は諸小国の連合(加耶(かや)連合)を形成しただけで統一国家をつくらなかった。そのため百済、新羅に絶えず脅かされた。


  ■三国の抗争■ 

高句麗、百済、新羅は、それぞれ中国の制度、文化を吸収して自国の発展を図ると同時に、土地と人間の獲得を目ざして互いに戦った。そのなかで高句麗の広開土王(好太王。在位391~412)は新羅を屈服させ、百済を攻め、また中国と交戦し、広大な王国を築いた。次の長寿王は都を鴨緑江中流域の国内城(中国吉林(きつりん)省集安県)から平壌城に移し(427)、百済、新羅を圧迫した。
   百済は高句麗に漢山城をとられて、都を熊州(ゆうしゅう)(忠清南道公州)に移し(475)、さらに泗■(しひ)城(同扶余)に遷都し(538)、また倭(わ)(日本)と連盟して、高句麗、新羅と対抗した。新羅は6世紀に加耶連合を併呑(へいどん)し、漢江下流域をとり、高句麗、百済とあるいは和し、あるいは戦い、着々と領土を拡大した。→高句麗 →百済


  ■統一新羅と渤海■


   三国が抗争しつつ発展した4世紀から6世紀にわたる時期に、中国は五胡(ごこ)十六国、南北朝の混乱に陥り、朝鮮に干渉する余裕はなかった。しかし6世紀末に隋(ずい)が中国を統一すると、その力は朝鮮に向かってきた。隋は7世紀初めに3回にわたって高句麗(こうくり)を攻めた。しかし高句麗の奮戦で敗退し、第四次攻撃を計画中に農民反乱によって滅亡した(618)。続いて唐も7世紀中期に数回にわたって高句麗に侵入した。しかし高句麗の反撃で失敗に終わった。


  ■百済、高句麗の滅亡■

 唐は作戦を変え、海を渡って百済を攻めた。このとき新羅は宿敵を倒すために唐と連合した。唐・新羅の連合軍は百済を攻め滅ぼし(660)、また百済救援のために出動した日本軍を白村江(はくそんこう)で撃破した(663)。続いて連合軍は高句麗を攻め、これを滅ぼした(668)。
   唐は百済、高句麗の故土を自国の領土に編入しようとした。新羅は百済、高句麗の討滅では唐と連合したが、唐の朝鮮占領に反対し、6年間(671~676)にわたって唐と戦った。ついに唐は朝鮮占領をあきらめて朝鮮から撤退した。
   唐の撤退により、新羅は朝鮮半島の大部分を領有することになった。この拡大した国土を支配するために新羅は律令(りつりょう)制度を採用し、中央集権的国家の建設を目ざした。執事部、調部、倉部、礼部などの中央官庁、九州、五京、郡県などの地方統治機構、九誓幢(せいどう)、十停の軍事組織などは7世紀末までに整備された。王族、貴族は骨品(こっぴん)制によって特権が守られ、彼らの住む首都慶州には全国から貢物が運び込まれた。ここには壮麗な宮殿、官衙(かんが)、寺院、邸宅が立ち並んだ。慶州周辺に残る寺院、仏像、銅鐘や古墳からの出土品などは当時の栄華をしのばせる。


  ■渤海王国■ 

一方、滅亡した高句麗の遺民は「満州」に移り、土着の靺鞨(まっかつ)人を支配下に置き、震(しん)国を建てた(698)。
  唐は震国王大祚栄(だいそえい)を渤海(ぼっかい)郡王に封じた(713)。以後、この国は渤海と称するようになった。渤海は高句麗の文化を受け継ぎ、また唐の文化を吸収して栄えた。最盛期には中国吉林省を中心にして遼寧(りょうねい)、黒竜江両省の一部、朝鮮北部、ロシアの沿海州(現沿海地方)にまたがる大領域をもち、中国人から「海東の盛国」とよばれた。8、9世紀には日本との間に使節の往来が頻繁であった。→新羅 →渤海


  ■高麗統一国家■
   新羅では9世紀以降、王位継承をめぐって王族、貴族の抗争が激化した。また地方では農民一揆(いっき)が頻発し、豪族が台頭した。豪族は城を構えて部下を養い、周辺の農民を支配し、互いに争った。そのなかで全羅道地方を地盤とする甄萱(しんけん)は後百済(ごひゃくさい)国を建て(892)、江原道、京畿(けいき)道地方を根拠とする弓裔(きゅうえい)は摩震(ましん)(のちに泰封(たいほう))をつくった(904)。当時、新羅は慶州周辺を支配する地方政権になっていた。これら三国を後三国という。


  ■高麗の統一と発展■  このあたりが、チャングムの時代に近いですかね。

やがて弓裔の部下の王建が弓裔を倒して王位につき、国を高麗(こうらい)と号した(918)。高麗は新羅を併合し(935)、後百済を攻め滅ぼし(936)、朝鮮半島を統一した。ほぼ同じころ、北方では渤海が契丹(きったん)に滅ぼされ(926)、その王族や遺民が高麗に逃れてきた。これによって渤海は高麗に吸収され、これまで南北に並存していた二国が高麗の下に統一された。以後、朝鮮は単一国家として発展するが、北方の広大な地域は朝鮮史の範囲から離れた。
   高麗は唐の律令制度を採用し、中央集権的官僚国家の建設を目ざした。科挙制を施行し(958)、地方豪族のなかの人材を官僚に登用し、また土着豪族を郷吏に任命して行政事務の末端を担当させた。中央には中書、尚書、門下の三省、および吏、戸、礼、兵、刑、工の六部(りくぶ)、その他の官庁を置き、地方には京、牧、郡、県などを設け、その下に郷、部曲、所、駅、津などを置いた。
  郡県以上の住民は良民、郷以下の住民は一段身分が低いものとされた。首都開京(開城)には権力と富が集中し、高麗青磁で代表されるような美しい文化が栄えた。


  ■一揆と武人政権■ 

しかし12世紀以降、政界では権力闘争が激化し、支配体制は動揺した。また地方では農民の流亡や一揆が起こった。とくに12世紀後半には全国にわたって一揆が巻き起こった。その不安な空気のなかで、それまで文臣に見下げられていた武臣がクーデターを起こし、一挙に政権を掌握した(1170)。しばらく武人相互の権力闘争が続いたのちに崔(さい)氏武人政権が成立した(1196)。これは朝鮮史上で類のないことである。しかし武人政権はモンゴル侵入のなかで倒された。


  ■外圧とモンゴルの侵入■ 

高麗時代はアジアの北方民族が活躍し、南方農耕民族を苦しめた時代である。高麗も北方民族の南侵に悩まされた。10世紀末から11世紀初期にかけては契丹(遼(りょう))、12世紀には女真(じょしん)(金)、13世紀以降はモンゴル(元)の侵入を受けた。とくにモンゴルは約30年(1231~59)にわたって高麗全土を寇掠(こうりゃく)した。崔氏武人政権は頑強に抗戦したが、和親を唱える文臣派に倒された(1259)。以後、高麗はモンゴルの藩国となって内政干渉を受け、2回の日本遠征(文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役)には参戦を強制された。続いて14世紀になると倭寇(わこう)(前期倭寇)が襲来し、全海岸線だけでなく奥地まで荒らされた。
   こういう外患のなかで、土地は少数の権力者の手に集中し、多くの農民は土地を失い、官僚のなかにも土地や禄(ろく)の支給にあずかれないものが現れた。内憂、外患を打開するための一大革新が要望された。→高麗


  ■朝鮮両班国家■


   14世紀中期に大陸では元が衰え明(みん)が興った(1368)。この国際政局の変動は高麗にも波及し、元と明のどちらを支持するかが大きな政治問題となった。そこへ登場したのが李成桂(りせいけい)である。彼は倭寇(わこう)を討って武名をあげ、革新派の与望を担って親元(げん)派を追放し、続いて土地改革(科田法)を断行し(1391)、権力者がもっていた大私有地を没収して、官僚、軍士に配分し、小作料を公定して地主の不法収奪を禁止した。翌1392年王位につき、李氏(りし)朝鮮王朝を創建した。


  ■朝鮮王朝の発展■ 

新王朝は首都を漢城(ソウル)に移し、朱子学を国教にし、中央集権的官僚国家を建設した。中央に最高政治機関として議政府、実務を担当する六曹(りくそう)(吏、戸、礼、兵、刑、工)その他の官庁を置き、地方は京畿(けいき)、忠清(ちゅうせい)、全羅(ぜんら)、慶尚(けいしょう)、江原(こうげん)、黄海(こうかい)、平安(へいあん)、永安(えいあん)(のち咸鏡(かんきょう)と改称)の八道に分け、その下に州、府、郡、県を配置した。この新王朝の下で農業が振興し、手工業も発達した。北辺の開拓が進み、国境線は鴨緑江(おうりょくこう)、豆満江(とまんこう)にまで伸張した。明および日本との外交関係も安定した。文化が栄え、多くの学校がつくられ、多くの書籍が刊行され、また独自の朝鮮文字(ハングル)がつくられた。
   このような朝鮮王朝の建設発展を推進したのは両班(ヤンバン)(文班、武班)とよばれる官僚層であった。彼らは朱子学を学び、科挙を通って官僚となり、政治、経済、社会、文化のあらゆる面で支配的地位を占めた。ところが15世紀末以降、彼らの間に党争が始まった。有力な両班は出身地に書院をつくり、一族や同郷の子弟を教育すると同時に、そこで育成した儒生を結集して中央政界における支配権をとろうとした。彼らは抗争を重ねる間に明確な党派を形成した。まず東人と西人の二派が生まれ(1576)、やがて東人は南人と北人に分かれ(1591)、それらがさらに分派を生み、激しい党争を展開した。


  ■日本軍の侵入■ 

党争が激化していた時期に倭寇(後期倭寇)が襲来した。続いて豊臣(とよとみ)秀吉の大軍が侵入し、前後7年間(1592~98)にわたって全土が兵火を受けた。これに対して両班、儒生、僧侶(そうりょ)などが農民を率いて義兵をあげ、日本軍と戦った。また海上では李舜臣(りしゅんしん)が日本海軍を破り補給を妨げた。また明の援軍も加わり、結局、日本軍は成果を得ることなしに撤退した。続いて後金(こうきん)(清(しん))軍が2回(1627、1636~37)侵入した。朝鮮は清に事大の礼をとらざるをえなくなった。→文禄・慶長の役


  ■商品貨幣経済の発展■ 

これら外敵の侵入、とくに日本軍の侵入は莫大(ばくだい)な災害をもたらした。しかし朝鮮社会はまもなく戦災から立ち直り、新しい発展を始めた。17世紀後半以降、商品貨幣経済が発達し、場市(定期市)が全国に成立し、鋳造貨幣の使用が一般化した。農業では二毛作の普及によって商品作物の栽培が広がり、従来の両班地主のほかに農民出身の庶民地主が現れた。18世紀になると農業から分離した専業の手工業者が増え、鉱山においては賦役労働にかわって賃金労働が現れた。また旧来の特権的御用商人に対抗して、場市を回る行商や店を構える客主、旅閣(問屋)が現れた。
   こういう経済の発展は農民層の分解を引き起こし、一部のものの富農化、地主化と、多数のものの零落をもたらした。また官職や両班身分の売買を引き起こし、伝統的社会秩序を動揺させた。


  ■新しい思想・文化の台頭■ 

社会的変動は新しい思想、文化を生み出した。国教としての権威を誇る朱子学が、観念論や儀礼論にとらわれているのに反対して、自然と社会の合理論認識と現実批判を目ざす実学が現れた。自然科学、哲学、歴史学、地理学、農学、言語学から文学、美術に至る広範な分野に新気運がおこった。一方、中国を経由して天主教(キリスト教)が伝わり、まず知識層に、続いて農民の間に広まっていった。
   新しい思想の台頭を政府は恐れた。まず天主教徒への大弾圧(1801。辛酉邪獄(しんゆうじゃごく))から始まり、伝統秩序を批判するいっさいの思想を邪説として弾圧した。そのため実学の正常な発展の道は阻まれ、少数の知識層のなかで命脈を保つ状態になった。
   他方、農民の間では、1860年に崔済愚(さいせいぐ)が始めた東学という民族宗教が広がった。これは西洋の侵略に反対すると同時に、既成の身分秩序を否定し、農民の解放を目ざすものであった。崔済愚は処刑されたが(1864)、東学は農民の信仰を集めた。
   思想界の変動と並んで19世紀には各地で民乱が起こった。平安道に起こった洪景来(こうけいらい)の乱(1811~12)、南部一帯を騒乱に巻き込んだ晋州(しんしゅう)民乱(1862)はその代表的なものであり、王朝支配体制を揺るがせた。


  ■列強の侵略と朝鮮の抵抗■


   朝鮮王朝の支配体制が動揺していた時期に近代列強が押し寄せてきた。19世紀初期以降、列強の船が朝鮮に来航し通商を求めた。
  しかし朝鮮は拒否して鎖国を守り続けた。
  1863年、執政の地位についた大院君(だいいんくん)は、王朝の権威を回復するために景福宮の造営や書院の撤廃を断行する一方、天主教徒に大弾圧を加え(1866。丙寅(へいいん)邪獄)、またアメリカ商船シャーマン号を打ち払い(1866)、フランス艦隊を撃退し(1866)、さらにアメリカ艦隊をも撃ち退け(1871)、攘夷(じょうい)、鎖国を宣言した(1871)。そのころ明治維新を成し遂げた日本は朝鮮に開国を求めたが、大院君は拒否した。たまたま政変が起こり、大院君が失脚し、閔氏(びんし)政権が出現した(1873)。
  日本は閔氏政権を威嚇して江華(こうか)条約(日朝修好条規)を押し付け(1876)、朝鮮を開国させた。これは完全な不平等条約で、日本は欧米列強に押し付けられたことを朝鮮に押し付けた。


  ■壬午軍乱と甲申政変■ 

開国後、日本商人は穀物や金の地金を買いたたき、木綿や雑貨を売りつけた。朝鮮では物価が騰貴し、民衆の生活は苦しくなった。儒者は衛正斥邪(せきじゃ)(朱子学の正統を守り異端邪説を退ける)の立場で、西洋化した日本を排撃し、日本に追随する閔氏政府を攻撃した。そういう時期にソウルで兵士が反乱を起こしたのを契機に反政府・反日の大暴動が起こった(1882。壬午(じんご)軍乱)。このとき、かねて日本への反撃の機会をねらっていた清(しん)が出兵し、暴動を鎮圧すると同時に、閔氏一派を抱き込み保守派政権をつくった。
   これに対して、近代的改革による朝鮮の独立と富強を目ざす開化派が、日本の支持をあてにしてクーデターを起こし、保守派を追放して一挙に開化派政権をたてた(1884。甲申(こうしん)政変)。しかし清軍の反撃にあい、開化派政権は3日天下で倒れた。→壬午軍乱 →甲申政変


  ■甲午農民戦争■ 

欧米列強は次々に朝鮮に登場し、朝鮮は列強抗争の舞台になった。朝鮮の植民地化の危機は深まった。しかも官僚は混乱に乗じて農民への誅求(ちゅうきゅう)を加重した。このとき、東学の紐帯(ちゅうたい)で結ばれた農民は、反侵略・反封建の大農民戦争を巻き起こした(1894。甲午(こうご)農民戦争)。農民軍は政府の討伐軍を打ち破り、貪官(どんかん)汚吏の処分、奴婢(ぬひ)・賤民(せんみん)の解放、過重税金の廃止、土地の平分、寡婦の再婚、外賊に通じる者の処罰などを政府に要求した。→甲午農民戦争


  ■日清戦争と甲午改革■ 

農民軍を自力で鎮圧できない政府は清に出兵を請うた。それを知った日本はただちに出兵した。日本は清軍を攻撃する一方、朝鮮政府を威嚇し、閔氏政権を倒して開化派政権をたてた。この政権のもとで、官僚機構の整備、貨幣・度量衡の統一、租税の金納化、両班(ヤンバン)と良人との間の身分差別の撤廃、奴婢・賤民の解放、寡婦再婚の自由などの改革命令が出た(1894。甲午改革)。これには、甲申政変や甲午農民戦争のなかで示された要求が反映している。しかし、日本軍の支配下で行われたために、民衆の目には侵略の手段と映り、改革の成果はあがらなかった。
   日清戦争に勝った日本は朝鮮に対する独占的支配権を獲得したかと思った。しかし三国干渉によって日本の夢は打ち消された(1895)。朝鮮では三国干渉を主動したロシアの勢力が伸び、日本は不振となった。その退勢を挽回(ばんかい)するために、日本公使三浦梧楼(ごろう)らは日本軍人・浪人を使い、王宮を襲って反日派の首領閔妃(びんひ)を殺した(1895。乙未(いつみ)事変)。


  ■義兵■ 

閔妃虐殺は朝鮮人を憤激させた。儒者を指導者とする義兵が各地で立ち上がり、日本および親日官僚に反対した。義兵の鎮圧のために政府軍が地方に出動したすきに、ロシアと結ぶ一派は国王を王宮から連れ出してロシア公使館に移した(1896)。これによって開化派政権は倒れ、親露派政権が生まれた。
   この異常な事態のなかで、鉄道、鉱山、森林などの利権は次々に欧米および日本に売り渡された。朝鮮の危機は一段と深まった。この危機に直面して、急進的開化派は『独立新聞』を創刊し、続いて独立協会を結成し(1896)、朝鮮の民主化による独立の達成を目ざす大衆運動を展開した。1897年に国王高宗は皇帝に即位し、国号も大韓帝国と改め、自主独立の国家であることを示した。開化派は一時は国王、政府を動かし、議会政治が出現するかと思われたが、保守派の巻き返しによって弾圧され、解散させられた(1898)。→李氏朝鮮
  ■日本の朝鮮統治と朝鮮人の抵抗■


   日本はロシアを朝鮮から排除するために日英同盟を結び(1902)、ついに日露戦争に踏み切った(1904)。日本は開戦と同時に朝鮮に「日韓議定書」を押し付け、日本軍の行動の自由と基地使用の権利をとり、続いて「第一次日韓協約」によって外交と財務に顧問を送り込み、朝鮮を制圧した。やがてポーツマス条約で朝鮮に対する日本の支配的地位が国際的に承認されると、「第二次日韓協約」(乙巳(いつし)保護条約。1905)を押し付け、朝鮮を日本の保護国にし、外交の権利を奪い、統監府を設けた。続いて朝鮮軍隊を解散させ(1907)、司法、警察、通信などの権利を奪い、ついに朝鮮を併合した(1910)。約500年続いた朝鮮王朝は滅亡した。→韓国併合


  ■義兵運動と愛国啓蒙運動■

 朝鮮人は自国の滅亡を座視していたのではなく、これに強く抵抗した。先に乙未事件後に起こった義兵は一時収まっていたが、日露戦争期から再燃し、乙巳保護条約の締結以後は全国的に広がり、軍隊解散後は兵士が義兵に参加し、強力に抗戦した。日本軍は総力をあげて攻撃したが、義兵は併合後も「満州」との国境地帯で活動を続けた。
   一方、開化派系統の人々は、文化、教育の面で愛国啓蒙(けいもう)運動を展開した。大韓自強会、漢北興学会、畿湖学会、湖南学会など多くの文化団体が生まれ、『大韓毎日新報』『朝陽報』『大韓民報』などの新聞が刊行された。私立学校も各地につくられ、その数は3000に上った。朝鮮語の発展を目ざす国文運動も行われ、愛国的英雄の伝記が刊行され、民族の自覚と文明開化を主題とする唱歌もつくられた。これらの運動は義兵運動とは結合しなかったが、朝鮮の独立、国権の回復、民権の伸張を大衆に訴え、その覚醒(かくせい)を促した。


  ■武断政治と土地調査事業■ 

併合後、統監府は総督府と改称された。初期の統治政策は「武断政治」とよばれる。軍人総督のもとで、憲兵と警察を一体化した憲兵警察を全土に配置し、言論・集会・結社の自由を完全に奪い、朝鮮人を徹底的に弾圧した。一方、同化政策を採用し、朝鮮人が「忠良なる国民」になることを要求した。
   武断政治のもとで、日本は大掛りな「土地調査事業」(1910~18)を強行し、農民から土地を奪った。また「会社令」を公布し(1910)、朝鮮人の会社設立を制限し、民族産業の成長を阻んだ。朝鮮人は政治的に弾圧されただけでなく、苦しい生活を強いられた。


  ■三・一独立運動■ 

厳しい監視のなかでも朝鮮人の反日運動はひそかに続いていた。また「満州」、上海(シャンハイ)、アメリカなど国外でも独立運動が行われていた。そこへ第一次世界大戦後の民族自決主義の風潮とロシア革命の影響が及んできた。まず日本にいた朝鮮人留学生が独立宣言書を発表した(1919年2月8日)。続いて3月1日、民族代表33名がソウルで独立宣言書を発表した。独立万歳を叫ぶ示威運動はまずソウルで始まり、たちまち全国に波及した。思想、宗教、職業、地位の差を越え、老若男女を含む挙族的独立運動が展開された。参加者200万、逮捕者5万、死者7500に上った。これを三・一独立運動という。→三・一独立運動


  ■文化政治と産米増殖計画■

 日本は警官、軍隊を動員して三・一独立運動を鎮圧したのち、従来の「武断政治」を改めて「文化政治」を採用し、朝鮮人に多少の発言権を認め、その懐柔を図った。また同化政策を強化し、朝鮮人の民族意識の排除に努めた。一方、日本は「米騒動」(1918)に懲り、日本の食糧難を打開するために朝鮮で「産米増殖計画」をたて(1920)、朝鮮米の増産と日本への移出を強行した。その過程で朝鮮農民の窮乏が深まり、自作、自小作が減って小作が増え、多くの離村者が現れた。彼らを吸収する工業は成長していなかった。日本、「満州」への移住者が増え、また火田民が急増した。


  ■社会主義運動■ 

社会不安が深まるなかで農民運動、労働運動が盛んになり、朝鮮共産党が生まれた(1925)。朝鮮王朝の最後の国王であった純宗の葬儀のときには、またも独立万歳を叫ぶ示威運動が起こった(1926。
  6.10万歳運動)。続いて民族主義者と共産主義者が連合して新幹会(しんかんかい)を結成し(1927)、民族的権利の回復に努めた。
  また光州抗日学生運動のときには全国の学生・生徒が同盟休校、示威運動を展開し(1929~30)、元山(げんざん)ゼネストのときには全国の労働者、農民、学生、市民と世界諸国の労働者の支援を受けた(1929)。


  ■戦時下の朝鮮■

 「満州事変」(1931)から日中戦争(1937)、太平洋戦争(1941)へと続く戦争のなかで、日本は朝鮮を兵站(へいたん)基地にし、食糧や地下資源の増産、重化学工業の移植、武器工業の建設などを強行した。同時に朝鮮人に強い思想統制を加え、これまでの同化政策を推し進めて「皇民化政策」を施行した。「皇国臣民の誓詞」を制定し(1937)、これを斉唱させ、姓名を日本式のものに改める「創氏改名」を強要し(1939)、また神社参拝、宮城遙拝(ようはい)、日の丸掲揚、日本語の使用などを強制した。また朝鮮内の鉱山や軍需工場に徴用するだけでなく、日本に強制連行して鉱山、軍需工場、鉄道、港湾などで働かせた。また朝鮮人を戦争に動員するために、まず陸軍志願兵制度を施行し(1938)、ついには徴兵制度を実施した(1944)。
   こういう日本の政策に朝鮮人は大きな怒りを抱いた。しかし徹底した抑圧のもとでは、それを表明するのは困難であった。それだけでなく、日本の政策に対する沈黙も許されず、知識人のなかには日本の戦争政策、皇民化政策への礼賛を強いられた者が少なくなかった。→朝鮮統治政策 →朝鮮人強制連行 →皇民化政策


  ■独立・解放運動■

 朝鮮の独立と解放を求める運動は主として中国の各地、とくに「満州」で盛んであった。「満州」の間島(かんとう)地方には早くから朝鮮人が住み、日本の朝鮮統治時代には生活苦のために移住してくる者が増えた。そのなかに多様な政治団体、武装集団が結成され、反日運動の拠点になっていた。金日成は抗日遊撃隊をつくり(1932)、朝鮮人民革命軍を編成し(1934)、民族統一戦線としての祖国光復(こうふく)会をつくり(1936)、「満州」各地で日本軍と交戦すると同時に、朝鮮内にも出撃し、朝鮮人を勇気づけた。一方、三・一独立運動の直後に上海で成立した大韓民国臨時政府は、その後も命脈を維持していたが、その指導者金九(きんきゅう)は重慶(じゅうけい)で韓国光復軍を編成した(1944)。また朝鮮人社会主義者は朝鮮独立同盟をつくり(1942)、中国人民軍と協力しつつ華北で日本軍と戦った。また朝鮮国内では呂運亨(りょうんこう)らがひそかに建国同盟をつくり、国外の独立運動と連絡をとり、解放の日のための準備をしていた
。→朝鮮独立運動


  ■解放と分裂■


   1945年8月、日本の敗戦により朝鮮は解放された。政治犯、思想犯は獄から釈放され、国外にいた運動家も帰ってきた。朝鮮全土が解放の喜びに沸き立った。しかし朝鮮人内部に政治路線についての対立があったうえに、大戦後における米ソの対立=冷戦の影響を受け、統一国家の樹立は阻まれた。38度線を境にして南北に進駐した米ソ両軍は、それぞれまったく相反する政権の育成を図り、ついに南には李承晩(りしょうばん)を大統領とする大韓民国、北には金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立した(1948)。


  ■朝鮮戦争■ 

南北の対立は朝鮮戦争となって爆発した(1950年6月25日)。南にはアメリカ軍を主体とする国連軍が、北には中国人民志願軍が加わり、同族相殺の戦争が行われた。3年にわたる一進一退の戦いののち、停戦協定が結ばれ(1953年7月27日)、いちおうの平和が戻った。しかし、この戦争によって朝鮮全土が戦場になり、南北ともに莫大(ばくだい)な人的、物的損害を受けた。とくに南北相互の民心に深刻な不信感を植え付けた。→朝鮮戦争


  ■朝鮮戦争後の南北朝鮮■ 

朝鮮戦争後、南では李承晩の独裁政治が続いたが、政治、経済、社会全体にわたる不法、腐敗は民衆の反感を招き、ついに「4月革命」(1960)によって李承晩政権は倒された。そのあと、多様な政治活動、学生運動、統一運動が展開されたが、それらは朴正煕(ぼくせいき)らの軍事クーデターによって否定され(1961)、朴軍事独裁政権が出現した。
   一方、北では戦争による廃墟(はいきょ)のなかから戦後の復旧と建設が急速度で進められた。「千里馬(チヨンリマ)運動」がそれである。その結果、1970年には「社会主義工業国」に到達した。その過程で、かつての朝鮮共産主義運動の指導者朴憲永(ぼくけんえい)をはじめ多くの幹部が粛清され、金日成の絶対的指導権が確立した。
   その後の歴史は「朝鮮」の項の「朝鮮民主主義人民共和国」と「大韓民国」の略史を読まれたい。


  ■統一への動き■

 南北それぞれまったく相反する方向を目ざす国家建設が進行したが、統一を求める民衆の声は強かった。そのうえに国際関係も変化し、かつての米ソ対立から、中ソ対立、米中接近へと推移した。このような内外の状況に押されて、南北当局者は交渉を重ねたのち、1972年7月4日、統一についての共同声明を発表した。その要旨は、自主的に平和的に民族の大同団結を図る、というものであった。南北の民衆は狂喜してこれを歓迎し、統一の実現を待望した。だが、その後の南北の交渉の歴史は、ただ統一の困難性を知らせるだけに終わり、統一への期待を裏切り続けてきた。
   しかし2000年6月、北朝鮮の平壌で朝鮮半島分断後初の南北首脳会談が開催され、韓国大統領金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)と朝鮮労働党総書記金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)は統一への取り組みに合意し共同宣言に署名、南北統一問題は新たな局面を迎えた。
   統一なしには朝鮮民族の真の解放はない。
  解放後すでに55年以上が経過した。しかも南北対峙(たいじ)による膨大な軍事費の負担は南北ともに国民生活を圧迫している。朝鮮民族の真の解放のために、南北の統一、そのための南北の対話が望まれている。→日朝交渉史

■李氏朝鮮
  
  高麗(こうらい)に続く朝鮮最後の統一王朝(1392~1910)。李朝と略す。


  ■概観■


  咸鏡道(かんきょうどう)地方の豪族出身の太祖李成桂(りせいけい)は、内外政多難な高麗末期に武人として倭寇(わこう)対策などに功績をあげて台頭し、政治中枢に参加した。土地制度改革で得た新興官僚層の支持を背景に1392年高麗最後の国王恭譲王(きょうじょうおう)(在位1389~92)を追放して国王に即位し、翌年国号を朝鮮と定め、漢陽(後の漢城、現ソウル)に都した。初め王族の内紛で不安定だった王権も第3代太宗のころ安定し、貴族の私兵が廃止され、朱子学による思想統制の下、中央集権的官僚制度が整備された。しかし王権は絶対的・超越的な力をもたず、政治は合議制によって行われ、高級官僚の合議機関として初め議政府(ぎせいふ)、のちに備辺司(びへんし)が実権をもった。第4代世宗から第9代成宗にかけて国力が充実し、領域が鴨緑江(おうりょくこう)・豆満江(とまんこう)の線まで拡大し、ハングル(訓民正音)が創作され(1446)、基本法典である『経国大典(けいこくたいてん)』を
はじめ各種編纂(へんさん)事業が行われた。官僚は原則として科挙で選ばれるとされていたが、実際は血縁・地縁の原理が強く作用し、それが政府内部における激しい権力争いとして展開した。15世紀末には新興官僚による士禍(しか)が起こり、16世紀になると朱子学の解釈を理論的武器とした学問上の争いの体裁をとる党争へと発展した。党争は大きく南人、北人、老論、少論の4派に分かれて争われたが、官僚・儒生がすべていずれかの党派に属し、父子代々続く争いを李朝末期まで繰り広げた。
   冊封(さくほう)を受けた明(みん)朝には事大関係を結び、日本とは対等の交隣関係を外交方針としていた。しかし1592~98年の豊臣(とよとみ)秀吉軍の侵入(壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の乱、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役)で大きな被害を受けた。多くの人命が失われ、国土は戦火で荒廃し、貴重な文化財が焼かれたり日本に持ち去られた。民衆を主体とする義兵の活躍、李舜臣(りしゅんしん)指揮下の水軍の勝利、明軍の救援などで日本軍は撤退したが、その傷もいえないうちに、1627年、36年の二度にわたって清(しん)軍が侵入し(丁卯(ていぼう)・丙子(へいし)の胡乱(こらん))、首都が占領され、清に服属を誓わせられた。日本との関係は、政権が豊臣氏から徳川氏にかわったことで修復され、対馬(つしま)宗(そう)氏との倭館(わかん)も復活し、将軍の代替りごとに通信使などの使節を派遣すること十二度に及んだ。
   18世紀に入ると清を通して西洋の学問が入って影響を与え、キリスト(天主)教が広まった。政府はキリスト教を邪学とよんで禁止し、何度も大弾圧を行った。19世紀には平安道一帯にわたる洪景来(こうけいらい)の乱(1811~12)が起こるなど生活苦にあえぐ民衆反乱が相次ぎ、1862年には全国的な広がりをみせるに至った。こうして朝鮮が衰退をみせるころ、欧米列強が来航して開国を要求し、66年にはフランス艦隊が、71年にはアメリカ艦隊が江華島を攻撃した。これに対し高宗の父(興宣)大院君(たいいんくん)は鎖国攘夷(じょうい)政策を固持し、キリスト教徒を弾圧しつつ列強の攻撃と対峙(たいじ)していた。しかし外戚(がいせき)閔(びん)氏が政権を握ると、76年雲揚号砲撃事件を契機として日本との間に日朝修好条規(江華条約)を締結し、開国した。82年壬午(じんご)軍乱で大院君がいったん復活したが、清軍の介入でふたたび閔氏が政権を握り、西欧列強にも開国した。一方、内政改革を主張する開化派は
日本軍支持の下、84年金玉均(きんぎょくきん)を中心として甲申政変を起こすが、守旧派・清軍に弾圧された。
  94年東学を紐帯(ちゅうたい)とし広く民衆を糾合した反乱(甲午農民戦争、東学党の乱)が起こるや、日清両国はこの鎮圧を口実に出兵し、日清戦争が始まる。同年甲午改革が行われ、諸制度が改められた。この戦争に勝利した日本はいったん朝鮮における独占的支配を固めたが、三国干渉で退潮を余儀なくされ、95年閔妃(びんひ)の暗殺(乙未(いつみ)事変)まで行ったものの、ロシア勢力に圧倒された。97年には高宗が皇帝となり、大韓帝国と改称して朝鮮王朝の名称が消えた。
  95年日露戦争に勝利した日本は朝鮮の独占的支配権を得、同年11月第二次日韓協約で外交権を掌握し、統監府を設置して伊藤博文(ひろぶみ)が初代統監となった。1907年ハーグ密使事件を口実に司法権・警察権も入手した日本は、10年ついに併合を強行し、朝鮮を植民地とした。これに対し朝鮮官民は義兵闘争などの抵抗を続け、三・一独立運動の源流となるのである。


  ■社会・経済■


  身分は大きく両班(りょうはん)(ヤンバン)・中人(ちゅうじん)・常民・賤民(せんみん)の四つに分かれる。両班は政治・経済・社会的な支配層であり、官僚であり地主であった。彼らは科挙に合格して官僚になるべきものとされ、そのために地方に郷校(きょうこう)や書院、中央に成均館などの教育機関が置かれた。しかし実際には科挙以外の方法で官僚となる者も多かったし、官僚にならず地方に土着する者(郷班)も多かった。本来両班人口は全体の数%とみられるが、李朝末期になると売位売官や冒称などでそれが急激に増大した。両班は中央・地方の勢力争いに勝ち抜き、他身分に対する支配権を確保するため、父系血縁でつながる一族が団結し、系図である『族譜』を作成して自己の正統性の根拠とした。中人は医師・訳官など中下級の技術官吏となり、準両班の位置を占めるが、その数は非常に少ない。もっとも人口数の多いのが常民であり、大部分は農業に従事し、国家の税・役を負担していた。賤民には奴婢(ぬひ)・白丁(はくてい)などがある。奴婢は農業などに従事し、常民に次ぐ
人口数をもつが、彼らには身分上昇の機会が与えられている点、上昇の機会が完全に閉ざされ職業的にも賤視された被差別民である白丁などとは異なる存在である。
   農民が大多数を占める李朝の商品流通の主要な舞台は、全土に散在する1000余の場市(5日ごとの定期市)であり、生産者や行商人(褓負商(ほふしょう))が生活必需品の取引を行った。褓負商のなかでも開城を根拠地とする松商は独特の複式簿記(開城簿記)をもつなど、全国的な活動をした。都には廛(てん)とよばれる常設店舗があり、販売特権を与えられる代償に政府に物品を提供していた。18世紀以降、大同法による貢納の地税化とその銭・木綿納化により、都市化の進展と相まって都の商業活動は活発化する。貨幣は鋳造と紙幣(楮貨(ちょか))があったが、政府の使用奨励策にもかかわらず、民間レベルでの流通水準は高くなかった。
   対外貿易には、対馬宗氏を相手として釜山(ふざん)で行われた倭館貿易、義州・会寧・慶源で清との間に行われた開市(かいし)があるが、中継貿易の性格が強く、生活必需品以外の商品の多くは朝鮮を通過して日本・中国へ流れていった。


  ■文化■


  李朝文化の特色の一つに金属活字の発達がある。政府を中心として何度も活字鋳造が行われ、印刷文化が発展した。また高麗青磁と並ぶ李朝白磁にもみるべきものがあり、秀吉の侵入時に工人と製作技術が日本へもたらされ、日本の陶磁器業の基礎を築いた。
   李朝は朱子学を公認思想として採用し、これ以外のもの、とくに仏教を公式には禁止した。朱子学は両班支配を支える理論的根拠として朝鮮社会を規定し、日本に影響を与えた李滉(りこう)(号は退渓(たいけい))や李珥(りじ)(号は栗谷(りっこく))などの学者が出、多くの学派が形成されたが、それはまた党争とも結び付いた。一方、観念化し現実と遊離した朱子学を批判し、合理的認識による現実とのかかわり合いを重視する実学派が生まれ、政治改革を主張した丁若・ていじゃくよう)(号は茶山)や、身分制廃止を唱えた洪大容(こうだいよう)が出た。彼らの主張は実現しなかったが、後の開化思想に多大の影響がみられる。しかし一般民衆は朱子学に規定されつつも、それとは異なる世界に生き、女性を中心に仏教が根強く信仰されていたし、土俗的な民間信仰の力も大きかった。彼らの意識のなかから『春香伝』『沈清伝』『洪吉童伝』などの語り物(パンソリ)が育ち、ハングル文学として定着した。また絵画も両班の間では北宋画(ほくそうが)系の墨絵にみるべきもの
が多いが、民衆に親しまれたのは民画であり、生活実態を写実的に描写した申潤福(しんじゅんふく)(生没年不明)や金弘道(きんこうどう)(1760―?)の風俗画も現れた。
  


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