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思い切り甘えて母の胸で泣きました [適応障害からうつ病、そして軽微双極性障害]

昨日、すぐさま飛んで駆けつけてくれた夫。

大丈夫なの?どうしたの?今から行くから。といってあわててきてくれた母

夕方仕事が終わってから、3者面談済ませて、夕飯の支度をしてから、来てくれた妹

みんなみんなの愛をたくさんもらって、たくさんたくさん甘えました。

特に、母には、子供のころからずっと言えなかったこと、ずっとずっと母にもっとかまってもらいたかったこと

こんな年になっても、、、、甘えたいこと、、、、も言えました。

母の胸で泣くなんて、初めてかもしれません。母は、常に体が弱かった一番下の妹のものでしたから。

母の手は、妹二人がつなぐもので、私は、、、我慢するしかなかった。

どんなに頑張っても、母は決して、私を認めてくれない、常に一番下の妹がかわいそうなんだと今もいってます。

親戚の会合に両親の代わりに行くように頼まれていっても、

「あーちゃは、わがままで困った子だときいている」と親族から言われたりします。

ますます、、私はしっかりしなきゃ、がんばらなきゃって思いが強くなってしまい、こういう病気になってしまった原因でもあるのでしょう。

私だって辛い。私もがんばっている。

そんなことは、母にだけわかってもらいたい。

誰にもわかってもらえなくても母から、認めてもらえればそれでいいのに。

そんなことをわんわん泣きながら、母に聞いてもらいました。

まあ、私がいったん泣きやんだ後、旦那に「もう、、今になって子供の頃のこととかいうんだからしょうがないなあ」

とぶつくさいっているのはきこえてきましたが、それでも母の目の前で、

自分の気持ち、人生でずっと抱えてきたことが言えたのは何よりだったと思います。

そして、母が、小さいころから、自分の母に甘えることが許されず、祖母に気を使って、過ごさなければいけなかったこと。

自分の母の苦労と我慢を見てきたこと。母のお嫁入りの道具一つでも自分の母に選んでもらいたかったのに

祖母が選ぶという家にいたこと。かなしかったこと。そんな過去をしりました。

もしかしたら、母は、そういう自分の体験を私に対して行っていたのかもしれません。私は、おばあちゃんしかよりどころのない子供になっていましたから。

祖母が亡くなってからは、糸の切れた凧になってしまったように・・・祖母が母代りでした。。

・・・夫は、優しく静かに話を聞いてくれます。何もいわずに頭をなでて膝枕をしてくれながら。

そして、「みんな自分のことしか考えていないんだよ」って。淡々といってくれます。

ずっとずっと甘えてました。

妹にも、いっぱい甘えました。妹はにこにこしてくれてましたずっと。

「だって、泣いている人の前で一緒に泣いちゃだめでしょ」って。

「上に立つ人ってどんな仕事でも大変だよ。」って。妹は、パートで働いていますが、社員さんの大変さを見て思うのでしょう。

バイトの若い子たちにもいらいらするから、怒っちゃうんだっていいます。

でも、社員になったら、全部ひっくるめて面倒みなきゃいけないから、なりたくないって。

妹が下ごしらえしてくれた鍋を最後に夫が仕上げて、作ってくれました。はじめて、油揚げを彼がきって、鍋を煮込んでくれました。

二人で囲んだ食卓は、とてもとてもおいしかったです。

鬱を治す一番の薬は、みんなの愛なのかもしれません。

昨日の夜は、ぐっすり寝れました。

今日は茶々もかが、ずっと隣にいてくれています。

昨日、家の異変を感じた茶々は、洗濯機の下に隠れてでてこなかったというのに。。

何か困ったときの対処療法の一つとして、「家族に甘える」 といった手段があるんだって

支えてくれる家族がいるんだってことが、

一番の収穫だったと思います。

一応、今日もお休みにして、会社へは、来週火曜日に行く予定です。

今、色々教わっていることもちゃんと習いたいし、せっかくのお仕事をここでおわりにしたくないし、

この仕事が楽しいんです。

そして目標の1月、2月に私が責任を持って、サインをしに行く出張ができるようになりたい。

そう思ってます。

また、今日ものんびりします。

茶々もかと家族、友達、みんなが支えてくれているのですから。

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今日は、あーちゃだいぶ落ち着いたね

 

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もかもゆっくりする

 

 

 

 


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